インドは私にとって特別の地である。インドを旅することが私の人生の大きな転換点になったとも言える。日本に生まれ育つことによっていつの間にか日本の常識に囚われていることに気づき、新しい視点で自分、物事を見れるきっかけを与えてくれた所でもあるし、知らず知らずのうちに自分を守るための仮面を身につけていることに気づき、本当の自分を発見し、長い長い心の旅をするようになるきっかけを作ってくれた所でもあるからと思う。
長い旅をするといやでも裸の自分と向き合わなければならない。日本でずっと生活していると生まれてからできてきた人間関係、社会のなかの位置にずっぽりはまっているから自分と向き合うことなどなかなかない。旅に出るとそんな関係など一切なくなってしまうからイヤでも自分というものを知ることになる。しかしありのままの自分を知るというのは簡単なようで難しい。たいてい自分を正当化するようにエゴ(自我)が働き、物事を自分の都合のいいように解釈してしまうし、自分の否定的な側面を心の底に押しやり、フタをしてしまうのである。こんなことにもなかなか気づくことは出来ない。このありのままの自分を知るということが長い長い心の旅の出発点だと思う。
ありのままの自分を知るというのにもっとも有効な手段は瞑想であると思う。かつて自分も瞑想を実践したがかなりの長い実践が必要である。しかし実生活においてもその見返りは多いであろう。

バラナシ リシケシュ

インドに何故惹かれるのか?~瞑想への道
人々は日々苦しみ、悩みから逃れることはできない。様々な問題で悩み、苦しむ。今、苦しんでいるその時、考えていることをやめるだけで楽になることがある。それは何故か。苦しみは考えていることに起因するからである。例えばお金がなくて明日からごはんも食べられないとしよう。どうしようお金も借りられない。仕事もすぐにはみつからない。どろぼうでもしなければだめかななどといろいろな思い、考えが頭をよぎる。そしてああやっぱりだめだ。ともがく。ここで動物を考えてみる。例えば野良犬。野良犬は明日はごはんを食べられないかもしれないが悩み苦しまない。何故ならば明日のことなど考えないからだ。同様に過去の過ちを悔いて苦しんだりしない。過去のことなど考えないからだ。今、この瞬間、瞬間を生きているといえる。考え、思考を生み出すのがエゴ(自我)である。エゴが苦しみを作り出しているともいえる。と言ってエゴの存在を否定するわけにはいかない。何故ならエゴがなくなると生きていくことができなくなるからだ。エゴがあるからこそ自分を守り、生きていくことができるのである。それではどうすればよいのか。エゴからの呪縛をとくことである。呪縛を解くにはエゴを知らなければならない。エゴを客観的にながめるようにしなければならないのだ。そのためには「今、ここ」にいなければならない。大抵の場合人間は「今、ここ」にとどまることはできない。ふと気がつくとまだ来ぬ未来のことを考え心配したり、これからすることを考えたり、楽しみを夢想するか、過去に起きたのことを考え悔んだり思い出にひったったりしている。その時は「今、ここ」にはいない。思考のなかにいるはずだ。特に怒り、悲しみの中にいるときはそのエネルギーが大きいから、エゴに完全に支配されていると言えるだろう。しかしその怒り、悲しみに付随してくる考えを追ったり非難したりせず、ひたすら考えを止めるを繰り返すとそのエネルギーは弱まってくる。弱まるということは苦しみから解放されるということだ。
インドほど日本での日常とかけ離れていると感じる国はないであろう。いたる所にいる乞食、ボロボロの服を着た人々、匂い、駅のホームにさえいる野良牛、夜になると路上で寝る人の多さなどあまりにも日本とかけ離れていることに驚く。はじめてインドを旅した時、日本の常識に固まっていた私は日本の常識がまったく通じないことに打ちのめされた。当然日本の常識が正しいと思っているからインド(人)に対して反感を抱くようになる。しかし旅を続けるにつれ、この反感が間違っているのではないかと思うようになる。自分だけが正しいというわけではないということに気づいて、インド(人)を受け入れられるようになったのである。インドを旅して、インドは嫌いだという人は日本の常識、自分の信念、考えに固執している人が多い。もちろんインドは汚いから嫌いだとか食べ物が合わないとか色々理由もあると思うが。あまりにも日本とかけ離れているインドを受け入れるか受け入れないかによってインドが好きになるか否かが決まる。一度インドを受け入れるるとインドを旅することがが楽しくてしかたがない。と同時に今までいかに自分が小さな枠に囚われていたか気づき、世界がいかに広く、自分がいかに小さい存在だったのか気づくようになる。
瞑想というと呼吸がどうの姿勢がどうのと色々難しいと思われがちだが、基本はひとつ、考えないことです。実はこの考えないということが一番難しい。10分も考えないでいられたら悟れると言われるくらいである。瞑想を始めるとほんの少しの間だけは考えずに「今、ここ」にいる事が出来るが、やがていつのまにか考えてしまい、その考えの中に囚われた自分がいることに気づくだろう。その時は「今、ここ」にはいない。過去の思い出のことやら、まだ来ぬ未来のことなどの中にいる。昔のことを悔やんだり思い出にひたったり明日はどうしよう、こうしようなどとついつい考えてしまう。そしてその思いが強いほど考えに囚われてしまう。この考えこそがエゴの正体であり人間のくせなのだ。そしてその考えこそが自分だと勘違いしてしまう。瞑想とははその考えに囚われない「今、ここ」にいる練習とも言える。「今、ここ」にいるにはどうすればよいのか。考えていることに気づいたら考えを止める。単純にそれだけで良いのだ。そしてまた考えてしまっっていることに気がついたら止める。それの繰り返し。これを毎日、静かに座り10分でも良いから繰り返すのだ。考えてしまったらできるだけその考えを追わないようにする。瞑想は長く続けるうちだんだん考えていることを眺められるようになってくる。ヴィパッサナ瞑想なども考えを止めるコツのひとつである。
瞑想をおこなうことによってエゴの働きが弱まってくると自分の心の奥底まで隅々まで見渡せるようになります。ということは今までのように嫌なこと、忘れたいことがあると無理やり潜在意識の奥底に閉じ込めるようなことが出来なくなります。自分をごまかすことが出来なくなるのです。つまり自分の心に正直になります。そしていままでいかにエゴという雲に覆い尽くされ本当の心を見てこなかったかに気付きます。自分の本当の心に出会えるようになります。ピュアな心とも言えるでしょう。これは経験してみないとわかりません。このピュアな心はすべてに繋がっているとわかります。大いなる宇宙の意思と繋がっているとさえ感じます。そして自分が今、何をなすべきか自分の心に聞けばわかるようになります。
瞑想を続け、本当の自分がわかってくると後戻りができなくなります。何故ならば真実が分かるからです。


インドを旅していると不思議な体験をすることがよくある。確率的に考えてもあり得ないような出会い、出来事などである。何か見えない力に導かれていると感じることもある。当時の旅の日記にはそんな体験が色々書かれている。他の人にはなんでもないことでも眼には見えない世界が広がっているんだということを気づかせるには十分な体験である。西洋的な物質主義に陥ってしまった日本に長く暮らしていると、目の前に存在する物質こそが重要であり、外面ばかりに目がいき、内面に向かうことは少ないが、インドを長く旅するとその目の前に存在する物質に対する心のありようが重要であると感じ、内面への旅に向かわせてくれるきっかけが多くあると思う。眼には見えない世界が確かに」存在するるのではないかと考えるようになるのはまさにコペルニクス的転回であると言える。予感、胸騒ぎ、縁がある、偶然、そんな言葉を日常で何回か使った人も多いであろう。しかし実証するのは難しいし、単なる思いすごしかなと軽く流してしまうことも多いのだがインドを旅しているとそんなことがすごく敏感になってくるのである。インドに呼ばれる人とそうでない人がいると誰かが言っていたが、呼ばれたと思う人はインドに来るべくして来たのだと実感することになるだろう。誰もが自分と同じような体験をするとは思わない。今思えばばその時の自分の心がその体験をひきよせていたとしか思えない。つまり眼には見えない時限の波動(バイブレーション)が関りあっていると考えざるを得ない。この体験が自分を外から内に向かうきっかけを与え、長い旅に向かわせてくれたとも言える。
海外一時脱出 TOP
自分は特定の宗教に入っているわけではない。しかしインドを長く旅するにつれていろいろな人と出会い、神とは?自分とは?と考えるようになった。インド人と会話するとよくお前の宗教は何だ?と聞かれる。神徒?仏教徒?初詣には神社に行くし、葬式は寺に行く。結婚式はキリスト教?でも神徒、仏教徒と自覚したこともないし、考えたこともなかった。アジア、特にインドでは宗教はなしなど考えられないのだ。神の存在は誰もが信じているし、神に対する祈りの真摯さは日本人には驚きである。自分がそうであるように日本人の多くがそうであろうが見えないものに対しては半信半疑である。しかし多くのインド人は物事を神を中心に考え、生活が決まってくるのである。修行した人達は外面より内面の心に重きを置く。これは特に北インドのほうが顕著である。南インドはクリスチャンも多く、西洋的なところもあるのであまり感じないが特に北インドのほうがより精神的な所を感じる。

>
inserted by FC2 system